EDO弦月人 第5回 森田圭子さん(33 回生)

ふるさとなまり

宮崎市を離れ、そろそろ 40 年、早いものです。高校時代の話をするときにまださほど昔のことのように思えなくて 20 年前くらいかな、と口に出してみますと、え?と顔をされるので、真面目に数えてみるともうそんなに経っています。光陰矢の如し、本当ですね。
さて、私の実家は大淀川沿いの山の上にある瓜生野の直純寺です。近くの相生橋が生目運動公園からシーガイアまで抜けるルートになって新しくなり、景色はずいぶん変わりました。しかし、相変わらず天気の良い日には大淀川の川面がきらきら光るその先に遠く山並みが続き左のほうに高千穂の峰が見えます。宮崎と言えば、そんな思い出が溢れてきます。離れて 40 年の時間が経った今も宮崎は私の心のよりどころです。
今は埼玉県和光市で子育て支援をしていますが、その現場で、宮崎出身の家族と聞けば、嬉しく懐かしく、自分では気づかないうちに、いつのまにか訛り、そのうちにエンジン全開で話してしまうようです。時々相手から「私はそこまで宮崎弁話したことないのです」と驚いて聞き返されるほど、故郷のなまりが私に沁み込んでいます。
もう 6 年前になりますか、私たちが幹事学年となった東京弦月同窓会がありました。懐かしい皆に会いとても嬉しい気持ちになり、当然のことながら、私はいつのまにか宮崎弁全開で遠慮なく話していました。するとある友人がそばに来てこう言いました。「宮崎弁いいね、僕はもう宮崎弁が話せなくなってしまったよ。」と。
私は驚いて理由を聞きました。すると彼は、僕は宮崎で育ったのだけど、高校を出て県外の大学に行った後、家族も転勤で暮らしていた宮崎をはなれてしまったので、もう宮崎に行く機会もなくなり、周りに宮崎弁を話せる人がいないんだ、と言いました。
彼は私が「じゃあがじゃあが」とか「いっちゃがいっちゃが」とか話している様子を見てうれしそうに、そして、少し寂しそうにそう教えてくれたのでした。
私はその気持ちがわかるような気がしました。普段は私の周りには宮崎弁を話す人はいません。でも、宮崎弁を話しているとき、聞いているとき、なんだか安心するのです。同じふるさと言葉を話す仲間がここにいる、きっとそれは私の昔ことまですべてひっくるめて知ってくれている家族や仲間の言葉だからなのかもしれません。
私は何といえばいいかわからなかったけれど、「では、私が宮崎弁教室を開くので通ってね。高いですよ」と冗談を言ったら、行きたいなあ、と彼は笑っていました。

私は二人目が 3 歳になって和光市に転居してきました。誰も知らないこの地域で、一人で子育てに悪戦苦闘していた平成 12 年、和光市の市民編集委員になったのをきっかけに知り合った仲間たちと「ひとりの子育てからみんなの子育てへ」と呼びかけて、わこう子育てネットワークの活動を始めました。初めての子育てサロンには40組の親子が押し寄せて驚きましたが、その多くはふるさとを遠く離れて子育てをしている親子でした。みんなそんな同じ背景を持っている、そうわかると、少し寂しくなくなります。仲間意識が芽生えて、少しホッとするし、助けてほしいと言える人もできます。あまり知り合いがいない私、そんな人の多いこの和光市で、手を取り合って子育てを支えあっていこうという活動をしてきました。
和光市には訛りという訛りはありませんが、ここがふるさとになる我が子や我が子の友達にとって、和光市が私の宮崎になってほしい、と思う気持ちで活動をしています。それには、こどもが大人になるくらいまでの長い時間がかかるでしょう。といっていたら、もう私の活動も来年 20 年、光陰矢の如し。やれやれ、本当に月日は飛ぶように過ぎていきますね。

森田圭子さん(33 回生)の略歴

埼玉県和光市在住
大宮高校第33回生
昭和 60 年 3 月お茶の水女子大学家政学部児童学科卒業
4月に株式会社伊勢丹 入社
関東で結婚ししばらくして伊勢丹を退社
10 年ほど専業主婦生活(大阪に転勤生活 3 年)
平成12 年にわこう子育てネットワーク設立し代表理事 (NPO 法人化平成16 年1月)
平成 21 年に NPO 法人ホームスタート・ジャパン理事、その後副代表理事
現在に至る
公職
平成 20 年~30 年 和光市教育委員会教育委員
(うち平成21年から28年は教育委員長)
平成 24 年~28 年埼玉県児童福祉審議会委員
平成 30 年から埼玉県子ども子育て応援計画策定委員

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